審査委員より
第6回ダイワハウスコンペティションでは、論文募集にあたり審査委員5名よりメッセージをいただいています。
ここには各審査委員が応募者に何を期待しているかが語(yǔ)られています。
本コンペに応募を希望される方は、必ずご一読ください。
【審査委員長(zhǎng)】
山本理顕
橫浜國(guó)立大學(xué)大學(xué)院教授、建築家

開(kāi)けないと風(fēng)が入ってこない
「フランス人は、???『小さなもの』の中で幸福になる技術(shù)を習(xí)得するようになった。つまり彼らは?自分の家の四つの壁に取り囲まれ?衣裝棚とベッド、テーブルと椅子、犬や貓や花瓶に囲まれて幸福になれるのである。」(「人間の條件」ハンナ?アレント)フランス人というのは正に今のわれわれ自身のことだ。なんだか“ちんけ”な幸福だけど、その「小さなもの」を供給して満足しているのがわれわれ建築家である。「『小さなもの』の中の幸福」と公共性は相互に矛盾するはずである。だとしたら?公共性なんて言わないで「小さなもの」の中に閉じこもるか、それとも四つの壁の一つくらいはこじ開(kāi)けてみようとするのか。開(kāi)けられるのか。
プロフィール:
やまもと?りけん/1945年北京生まれ/1968年日本大學(xué)理工學(xué)部建築學(xué)科卒業(yè)/1971年?yáng)|京藝術(shù)大學(xué)大學(xué)院美術(shù)研究科建築専攻修了後、東京大學(xué)生産技術(shù)研究所(原研究室/1973年山本理顕設(shè)計(jì)工場(chǎng)設(shè)立/2002?07年工學(xué)院大學(xué)教授/2007年?橫浜國(guó)立大學(xué)大學(xué)院建築都市スクールY-GSA教授
藤森照信
工學(xué)院大學(xué)教授

私だって公共性を考える
建築という存在の厄介さは、私性と公共性の両方を持つことだろう。両性具有の存在なんて、それだけで厄介。住宅は私性発揮の場(chǎng)に違いなく、近年の住宅を見(jiàn)ていると、ますますこの感を強(qiáng)くするのだが、そうした中で、「住宅の公共性」という難題が揚(yáng)げられた。個(gè)人の住まう器にとって公共性などあるんだろうか? でも、今こう仕事場(chǎng)のあるマンション5階から東京西郊の住宅地の光景を眺めると、無(wú)殘を禁じ得ない。私的に勝手に作り続けてきた結(jié)果が、このゴミ捨て場(chǎng)的光景なのだ。美しいのは人の作った住宅地の向こうに広がる神様の造った野山だけ。公共性について考えざるをえないだろう。
プロフィール:
ふじもり?てるのぶ/1946年長(zhǎng)野県生まれ/1971年?yáng)|北大學(xué)工學(xué)部建築學(xué)科卒業(yè)/1978年?yáng)|京大學(xué)大學(xué)院修了/1985年?yáng)|京大學(xué)助教授/1998?2010年?yáng)|京大學(xué)教授/2010年?工學(xué)院大學(xué)教授
千葉學(xué)
東京大學(xué)大學(xué)院準(zhǔn)教授、建築家

建築の力を信じているか?
玄関先に植木を並べて自前の風(fēng)景をつくること、地べたに座って友達(dá)と時(shí)間を過(guò)ごすこと、オープンカフェでお茶を飲むこと、路上ライブで人を集めること、あるいは東京マラソンで東京中を走り回ること、こうしたことすべては、道路という公共空間を私有化したと思える瞬間にこそ快楽の源がある。そこに見(jiàn)る空間(あるいは制度)と行為との間に立ち現(xiàn)れる関係性は、公共性のひとつの発露だ。では逆に、住宅という個(gè)人所有と私性の象徴のような空間は、いかなる公共性を擔(dān)うことができるのだろうか? 空間の実験場(chǎng)としてでもなく、自己実現(xiàn)の場(chǎng)としてでもない住宅は、構(gòu)想できるだろうか? 建築に力があると、まだ信じられるだろうか?
プロフィール:
ちば?まなぶ/1960 年?yáng)|京都生まれ/1985年?yáng)|京大學(xué)工學(xué)部建築學(xué)科卒業(yè)/1987年同大學(xué)大學(xué)院工學(xué)系研究科建築學(xué)専攻修士課程修了/ 1987?93 年日本設(shè)計(jì)/ 2001 年千葉學(xué)建築計(jì)畫(huà)事務(wù)所設(shè)立/現(xiàn)在、東京大學(xué)大學(xué)院工學(xué)系研究科建築學(xué)専攻準(zhǔn)教授、早稲田大學(xué)、日本女子大學(xué)非常勤講師
松山巌
小説家、評(píng)論家

馬鹿馬鹿しさに耐えろ
現(xiàn)代では、あらゆる価値は個(gè)人の欲望へと還元され、個(gè)人の欲望はますます増大し拡散し、市場(chǎng)原理に絡(luò)めとられる。この狀況にあって「公共性」を問(wèn)うことは、馬鹿馬鹿しいと思われかねない。にもかかわらず「住まい」は、個(gè)々人の欲望追求の器であるがために、生存の最低條件だけではなく、他者からの承認(rèn)や通話を必要とするだろう。幸福を個(gè)々人が求めるのならば、現(xiàn)代であれ、ここに「住まいの公共性」の萌芽があると信じたい。と同時(shí)に、現(xiàn)代ではすべての論理が相対化される。ならば論は獨(dú)斷になるか、現(xiàn)場(chǎng)から問(wèn)題をこつこつ拾い上げるか、どちらかになる。これも馬鹿馬鹿しいと思われかねないが、勇気をもって馬鹿馬鹿しさに耐えて欲しい。
プロフィール:
まつやま?いわお/1945 年?yáng)|京都生まれ/1970年?yáng)|京藝術(shù)大學(xué)美術(shù)學(xué)部建築科卒業(yè)/1984年『亂歩と東京』で日本推理作家協(xié)會(huì)賞受賞/1993年『うわさの遠(yuǎn)近法』でサントリー學(xué)蕓賞受賞/1996年『闇の中の石』で伊藤整文學(xué)賞受賞/1997年『群集』で読売文學(xué)賞受賞
西村達(dá)志
大和ハウス工業(yè)株式會(huì)社 代表取締役専務(wù)執(zhí)行役員

公共性のある「エコ」な住宅は「エゴ」な住宅を越えられるか
今や何をするにも「エコ」というテーマは外せない。私たちにとって前提條件の1つとなってしまった。しかし、本來(lái)グローバルに捉えるべきこのテーマには、「エゴ」に訴えかけなければビジネスとして成立しにくいという現(xiàn)実がある。また同様のテーマで「サスティナビリティ」があるが、時(shí)間軸で捉えた「エコ」とも言える。これらのテーマを突き詰めると必ず「エゴ」と「公共性」のジレンマに突き當(dāng)たる。元々「公共性」という概念が希薄な日本人にとって、歐米のような「公共性」を望めるのか。それとも私的な「エゴ」をも満足させられるような新しい「公共性」を獲得できるのか。説得力のある論の展開(kāi)と、獨(dú)自の切り口による具體的な提案を望む。
プロフィール:
にしむら?たつし/1949年宮崎県生まれ/1972年京都大學(xué)工學(xué)部建築學(xué)科卒業(yè)/1972年大和ハウス工業(yè)入社/現(xiàn)在、大和ハウス工業(yè)代表取締役専務(wù)執(zhí)行役員




