【歴史散策】松尾鉱山の全盛期
- 更新日:2010年03月26日
- カテゴリ:歴史
【松尾鉱山の全盛期】
松尾鉱山が中村房次郎により松尾鉱業株式會社として設立され
たのは1914年(大正3年 第17代総理大臣 大隈重信の頃)です。
標高900m付近の鉱山がある元山(現在の緑ヶ丘)から麓の屋敷
臺(現在の柏臺)までに索道を通し、(その當時は馬鉄やガソリン
カーも使われていた)1934年(昭和9年 第31代総理大臣 岡田
啓介の頃)には松尾鉱山専用鉄道が開通。小學校や病院が開設
されていきました。

松尾鉱山が作成したジオラマ。白く密集している下の
方が現在の柏臺で上の方が鉱山である。
一時は日本の硫黃生産量の30%、黃鉄鋼の15%を占め、東洋
一の産出量を誇っていました。その為、鉱山の人口は増え、1920
年には1132人、1935年には4145人、1940年に8152人、そして最
盛期の1960年には13,594人に達し、その中には朝鮮人労働者も
いたとの事です。

松尾鉱山で採掘?生成された硫黃
これだけの人口を抱える事になり、福利厚生施設が充実していく
のですが、戦後間もない時に水洗トイレ?セントラルヒーティング完
備の鉄筋コンクリート造の集合住宅や小?中學校に病院?映畫館
など、その當時の最先端の施設が備わる事となり、「雲上の楽園」
とも呼ばれていました。

その當時の松尾鉱山の寫真。正面や左側の建物は現存し、廃墟となっています。
戦中には社長が中村正雄となり上記のような隆盛をみましたが、
1945年(昭和20年 第42代総理大臣 鈴木貫太郎の頃)の終戦
間近の8月11日には米軍の空襲を受け、14名の犠牲者を出して
いる事も日本の産業の中で松尾鉱山も重要な位置にあった事を
うかがい知る事ができるのではないでしょうか。

左が創業者である中村房次郎氏、右は2代目社長中村正雄氏
次回はこの雲上の楽園の衰退について書きたいと思います。
※この文は様々な資料によって書いていますが、新説や異なる
內容などあるかもしれませんので、ご了承下さい。
関連WEB
八幡平市松尾歴史民族資料館
寫真は平成22年3月當リゾート地より約4kmにある
松尾歴史民族資料館にて撮影
=TAKE=










