三島町、下郷町、會(huì)津坂下町、會(huì)津美里町


自然?風(fēng)土
ロイヤルシティ豬苗代ヒルズ/2025.07.31

全國(guó)で3番目の広さを誇る福島県。東には阿武隈高地が、西には奧羽山脈と越後山脈が形成され、それぞれの山系で隔てるように「浜通り」「中通り」「會(huì)津」の3つのエリアに分けられます。気候や風(fēng)土もそれぞれに特徴があり、特に自然豊かなエリアが會(huì)津地方。ロイヤルシティ豬苗代ヒルズが位置する福島県豬苗代町をはじめ、県西部は會(huì)津地方に分布され、新潟県との県境に面した町村は「奧會(huì)津」と呼ばれています。
會(huì)津若松駅と小出駅(新潟県魚(yú)沼市)を結(jié)ぶJR只見(jiàn)線(xiàn)。第一只見(jiàn)川橋梁は、「道の駅 尾瀬街道 みしま宿」近くの尾根から眺めることができる
夏は涼しく、冬は雪が多い會(huì)津地方。特に山間部は國(guó)內(nèi)有數(shù)の豪雪地帯です。奧會(huì)津から新潟県の山間部を結(jié)ぶJR只見(jiàn)線(xiàn)は、紅葉の美しいローカル線(xiàn)として知られ、車(chē)窓からの景色はもちろん、秘境の中を走る電車(chē)を眺める楽しみも味わえます。なかでも人気が高いのは、會(huì)津西方駅と會(huì)津檜原駅の間に架かる「第一只見(jiàn)川橋梁」を見(jiàn)下ろす眺め。森と森を繋ぐアーチ橋は川面に映し出されて楕円を描き、森の中から汽笛が聞こえてしばらくすると車(chē)輌が姿を見(jiàn)せ、橋の上をゆっくりと進(jìn)んでいきます。
4月中旬から11月中旬まで運(yùn)航する霧幻峽の渡し。今や國(guó)內(nèi)外から観光客が訪(fǎng)れる人気スポット
只見(jiàn)川が流れる一部の地域ではかつて、生活の足として手漕ぎの渡し船が利用されていました。第一只見(jiàn)川橋梁を南下したところにあるJR早戸駅には、対岸の三更(みふけ)集落の人々が、自ら船を漕ぎ、駅に向かっていましたが、1964年(昭和39年)の土砂崩れで三更集落は廃村。渡し船も途絶えましたが、半世紀(jì)近くが過(guò)ぎた頃、有志の呼びかけにより観光用の手漕ぎ船として復(fù)活。早朝と夕方に霧に包まれる夏の景色から、その名も「霧幻峽の渡し」という観光スポットとなりました。小さな手漕ぎ船は、大きくうねる只見(jiàn)川の水面をゆっくりと滑り、やがて対岸の森に吸い込まれていきます。


屏風(fēng)巖、烏帽子巖、九輪塔巖など形の特徴で名前がつけられている「塔のへつり」。へつりとは「急斜面」や「川に迫る険しい斷崖」を意味する會(huì)津の方言
その昔、會(huì)津地方への塩や海産物は、奧會(huì)津の南を走る阿賀川を船で運(yùn)ばれていました。下郷町(しもごうまち)の阿賀川沿いに広がる「塔のへつり」は、川岸の森に石の塔が連なるように見(jiàn)える景勝地。高さ約70m、幅約100mの斷崖が連なるこの奇巖は、約2800萬(wàn)年から100萬(wàn)年前に形成された新第三紀(jì)層の凝灰?guī)rでできており、長(zhǎng)い年月をかけて繰り返された隆起や浸食、そして縦に走る割れ目(節(jié)理)が生じて、細(xì)長(zhǎng)い形がつくられていきました。へつり側(cè)の川岸には吊り橋で渡ることができ、奧には807年(大同2年)に坂上田村麻呂が創(chuàng)建したと伝わる虛空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)が安置されています。


田園地帯を見(jiàn)下ろす場(chǎng)所に復(fù)原された舊五十嵐家住宅。昔の農(nóng)具や生活雑貨も展示され、當(dāng)時(shí)の生活が垣間見(jiàn)られる
會(huì)津盆地の西部に広がる會(huì)津坂下町(あいづばんげまち)。江戸時(shí)代に、この地域に住んでいた農(nóng)家の暮らしぶりがわかるのが「舊五十嵐家住宅」です。五十嵐家は江戸時(shí)代の中堅(jiān)層農(nóng)家(本百姓)で、建物は寄棟造(よせむねづくり)の茅葺き屋根、丸石の上に直接柱が立てられています。「とんぼぐち」と呼ばれる玄関から入ると、屋內(nèi)の三分の一が土間、右手は農(nóng)村住宅の原型といわれる広間型三間取りで土間に直接藁や筵(むしろ)を引いた土座になっています?,F(xiàn)在の場(chǎng)所に移築復(fù)原された際、『享保十四年』と墨書(shū)された束(つか)が見(jiàn)つかったことで、建築年代が明らかな建物として、1972年(昭和47年)國(guó)の重要文化財(cái)に指定されました。
「五七桐紋」を神紋とする心清水八幡神社。長(zhǎng)州藩を脫藩後の吉田松陰も、東北を遊歴した際にここに訪(fǎng)れた
舊五十嵐家住宅から歩いて5分ほどのところにある心清水(こころしみず)八幡神社は、創(chuàng)建900年を數(shù)える古社です。1055年(天喜3年)6月、源頼義と嫡男の義家が奧州を征伐した際、戦勝を祈願(yuàn)するため、山城國(guó)(京都府)の石清水八幡宮から勧請(qǐng)したのが始まりと伝えられています。奧州征伐を終え、義家が建てた當(dāng)時(shí)の社殿は豪華な金塗り。建立の際に義家が『心清々し』と発したことにちなんで、心清水と稱(chēng)されたといわれています。社殿はその後火災(zāi)で焼け落ち、現(xiàn)在の社殿は火災(zāi)時(shí)の會(huì)津藩主、松平容保が藩費(fèi)で再建。2025年(令和7年)6月には、御鎮(zhèn)座970年祭典が執(zhí)り行われました。
會(huì)津藩祖 ??普颏悉袱?、歴代藩侯があつい信仰を寄せたという巖代國(guó)一之宮 伊佐須美神社
會(huì)津美里町に鎮(zhèn)座する伊佐須美神社は、1400年以上の歴史を誇ります。この神社に奉じられているのは伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)、大毘古命(オオヒコノミコト)と建沼河別命(タケヌナカワワケノミコト)父子の4神。2008年(平成20年)に社殿や神楽殿が焼失し、現(xiàn)在は仮社殿ですが、門(mén)外不出の一本桜といわれる薄墨桜や外苑のあやめ苑など見(jiàn)どころはたくさんあります。山間にある「左下り(さくだり)観音堂」は、830年(天長(zhǎng)7年)に徳一大師が建立したもの。巖場(chǎng)を切り開(kāi)いて建造された見(jiàn)事な三層閣で、最上階まで上ると遠(yuǎn)く磐梯山まで會(huì)津盆地が一望できます。
鎌倉(cāng)時(shí)代には、修験道での修行前にこもるお堂として使われていた左下り観音堂
會(huì)津若松駅[現(xiàn)地から約21.1km~21.7kkm]/小出駅[現(xiàn)地から約175.0km~175.6km]
第一只見(jiàn)川橋梁[現(xiàn)地から約48.3km~48.9km]/會(huì)津西方駅[現(xiàn)地から約52.3km~52.9km]
會(huì)津檜原駅[現(xiàn)地から約46.3km~46.9km]/JR早戸駅[現(xiàn)地から約57.3km~57.9km]
塔のへつり[現(xiàn)地から約51.3km~51.9km]/舊五十嵐家住宅[現(xiàn)地から約29.8km~30.4km]
心清水八幡神社[現(xiàn)地から約29.4km~30km]/伊佐須美神社[現(xiàn)地から約33.2km~33.8km]
左下り観音堂[現(xiàn)地から約35.1km~35.7km]
取材撮影/2025年5月23日~5月25日
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