京都市左京區(qū)?吉田山のふもとに、靜かにたたずむ「重森三玲(みれい)庭園美術(shù)館」。
永遠(yuǎn)のモダニズムを追究した作庭家の自邸には、今もその息遣いが漂います。
昭和のアーティストが築いた自邸の庭園
京阪電鉄「出町柳(でまちやなぎ)」駅から15分ほど歩き、吉田神社の裏參道に通じる路地をたどると、古い長屋門が見えてきます。門の內(nèi)側(cè)では、美しい枯山水庭園と日本建築が、まるで時が止まったような靜寂の中で客人を待ち構(gòu)えています。
ここは昭和を代表する作庭家、重森三玲(1896?1975)の終の住処となった屋敷。沒後30年を経て「重森三玲庭園美術(shù)館」と名付けられ、書院と庭園、茶室「好刻庵(こうこくあん)」が予約制で公開されています。館長を務(wù)める重森三明(みつあき)氏は三玲氏の孫。壯大な美の思想から家族だけに見せた素顔まで、偉大な作庭家のさまざまな面について詳しく教えてくださいました。
書院が建てられた時期は江戸中期までさかのぼります。吉田神社の神官を務(wù)めた一族が代々受け継いできた建物と庭を、1943(昭和18)年に三玲氏が譲り受けることに。當(dāng)時の庭は樹木を中心とした簡素なものでしたが、石や石組(石を組み合わせて配置する技術(shù))に対するこだわりの強(qiáng)かった三玲氏は、各地から取り寄せた巨石を効果的に用い、作庭の定石に終始しない挑戦的試みを取り入れていきました。そして、2?3度の工期を経て自身の集大成となる庭を築きました。
1970(昭和45)年には、ほぼ現(xiàn)在の形が完成。後年、主人木(庭の中心となる樹木)であったアカマツが壽命を迎えて枯れてしまうと、ダイナミックな石組が強(qiáng)調(diào)され、氏の好んだ枯山水庭園の特長がより際立つようになりました。
現(xiàn)在は「重森三玲邸書院?茶室」として國の登録有形文化財(建造物)に指定されており、書院は全國に殘る數(shù)少ない神官建築のひとつに數(shù)えられます。書院の縁側(cè)から見て正面にある平たい石は、神官や公家の來客が吉田神社を拝むために據(jù)えられていた禮拝石。この屋敷のルーツを、訪れる人に伝えています。
縁側(cè)から見た前庭。背の高い巖を多用したダイナミックな石組が重森三玲氏の作風(fēng)。中央が三尊石組と禮拝石
日本文化の源に枯山水庭園の由來を知る
枯山水庭園という言葉はよく知られますが、どのように定義されるかご存じでしょうか。「水を用いずに自然の山水を表現(xiàn)した庭」というのが一般的な定義ですが、三明氏によると、より詳しく理解しようとするなら古代中國の神仙思想からひも解く必要があります。
多くの日本文化の源流は中國にあるといわれ、作庭も例外ではありません。中國の道教の基盤となる神仙思想を描いたものが山水畫で、実際に巖や草木などを用いてその世界を立體的に表現(xiàn)したのが「庭」だということです。神仙思想とは、遠(yuǎn)い海の上に仙人の住む理想郷の島(蓬萊島(ほうらいじま))があり、そこにたどり著けば永遠(yuǎn)の命が得られるという信仰です。日本には飛鳥時代に伝わって広がり、後世の文化に影響を與えました。
華やかな貴族文化の時代には、池泉庭園が多く築かれました。海を模した池と蓬萊島を表す島々などを中心とする豪華絢爛(ごうかけんらん)な様式です。池泉庭園として代表的なものには、天龍寺 曹源池庭園や金閣寺庭園などが挙げられます。やがて質(zhì)実剛健を好む武家社會の時代になると、水を用いず海水を白い砂利で表現(xiàn)する枯山水庭園が流行しました。有名な枯山水庭園には大徳寺 大仙院や世界遺産に登録された龍安寺 石庭などがあります。三玲氏が昭和初期に手掛けた東福寺 本坊庭園も、苔と敷石で市松模様を表現(xiàn)したモダンデザインで広く知られています。
茶席 好刻庵からの眺め。築山と敷石の曲線が自然の美を表現(xiàn)しています
水のない庭園に異世界の情景を見る
自邸の庭について三玲氏が書き殘した資料はほんのわずかで、そこに配された要素が何を表現(xiàn)しているのか、正解を知る者はいません。しかし、先述の神仙思想を源流とする蕓術(shù)の軌跡をもとに想像力を働かせれば、空想上の蓬萊島や舟を運(yùn)ぶ海流などの様子が目に浮かんでくるでしょう。
書院の縁側(cè)から庭を眺めると、阿波産の青石が多く用いられていることに気づきます。これは三玲氏が好んで使った貴重な石材で、水に濡れると寶石のように青い光をまとい、極楽浄土を思わせる様相を呈します。正面には仏教の三尊仏になぞらえて組まれた三尊石組。その手前にあるのが前述の禮拝石です。
特徴的なのは、一般的な枯山水庭園では1つである舟石が、ここでは2つ配され、入舟と出舟が存在すること。敷石で描かれた波のような州浜模様も、他に類を見ない表現(xiàn)方法です。
では、仙人が住む蓬萊島を表現(xiàn)したのはどの石組なのか。これが正解だろうと予想はできますが、誰にも斷定はできません。作庭家が殘した永遠(yuǎn)の謎に思いを馳せながら、そこに存在しないはずの水の音に耳を澄まして、空想の世界に遊ぶのも趣深いものです。
障子をフレームに、一幅の山水畫のような趣を漂わせる書院前庭
軒下に波打つ州浜には白砂が、敷石には丹波鞍馬石(たんばくらまいし)が用いられています
高価な庭石として名高い、阿波産の青石=緑色片巖(りょくしょくへんがん)。美しい緑色と縞模様が特徴
挑戦し続けた稀代のアーティスト
重森三玲は日本庭園史に殘る作庭家ですが、三明氏いわく、本人には「造園家(庭師)」という意識はなかっただろうとのこと。というのも、蕓術(shù)の世界では工蕓、絵畫、茶の湯、建築など、あらゆる分野がつながり、影響を與え合っているからです。三玲氏も作庭だけでなく、いけばなや茶の湯などさまざまな蕓術(shù)に深い造詣(ぞうけい)をもち、生涯をかけて普遍の美を追究してきました。そこから得た知の集積と自身の美意識を重ね合わせ、常識にとらわれない表現(xiàn)を追い求めたアーティストだったのです。
三玲氏は庭園史研究家としても大きな功績を殘しました。1934(昭和9)年の室戸臺風(fēng)による庭園の被害を嘆き、全國各地の日本庭園を訪ねて、実測調(diào)査を?qū)g施し、『日本庭園史図鑑』として編纂(へんさん)。300件にも及ぶ調(diào)査が、その後、氏の作庭の土臺になったといいます。その學(xué)術(shù)的功績は現(xiàn)在高く評価されていますが、真理を追究する?yún)棨筏ぷ藙荬蜇灓à工郡帷W(xué)界とは一線を引き、大學(xué)からの登壇依頼も斷って、自らの求める美の道をひたすらに歩みました。親交の深かった彫刻家イサム?ノグチ氏に度々海外に來るよう誘われましたが、そのような時間はないと斷り続けたというエピソードが殘っています。
三明氏によると、普段は穏やかで優(yōu)しいおじいちゃんだったそう。この屋敷で10歳まで同居していましたが、作庭の仕事や蕓術(shù)について聞かされることはほとんどなかったのだとか。數(shù)多くの本を著したことや來客に「先生」と呼ばれていることから「偉い人」だと想像していましたが、その偉大さを知ったのは大人になり、蕓術(shù)の研究を進(jìn)めるようになってからだそうです。
書院の床の間には、現(xiàn)代美術(shù)家でもある三明氏の作品が飾られています。照明はイサム?ノグチ氏の作。小組格天井(こぐみごうてんじょう)が、位の高い人物が座する場所を示します
好刻庵と水屋の間にある坪庭に據(jù)えられた七五三石組
好刻庵の內(nèi)観。市松模様の波を表現(xiàn)した襖絵や照明なども、重森三玲氏自身のデザイン
伝統(tǒng)を?qū)Wび、尊びながら、挑戦を忘れないアーティストだった重森三玲。氏がその生涯を通じて表現(xiàn)した日本庭園の伝統(tǒng)とモダニズムの融合への挑戦は、今もなお時間を超えて、創(chuàng)造する全ての人にインスピレーションを與え続けます。
長屋門のさらに內(nèi)側(cè)にある木の扉。奧に広がる緊張感のある風(fēng)景に心を奪われます
PROFILE
重森三玲(しげもり みれい)
1896-1975年。岡山生まれ。作庭家、庭園史研究家。前衛(wèi)いけばなを提唱するなど多分野で活躍。庭園を獨(dú)學(xué)で學(xué)び、京都の東福寺本坊庭園、光明院庭園、松尾大社庭園など國內(nèi)に約200もの庭園を作庭。『枯山水』、『日本庭園史図鑑』、『日本庭園史大系』などの著書がある。三玲の名はフランスの畫家ジャン?フランソワ?ミレーにちなんで改名したもの。

取材撮影協(xié)力
重森三玲庭園美術(shù)館(重森三玲邸書院?庭園)
住所/京都市左京區(qū)吉田上大路町34
TEL/075-761-8776(見學(xué)は要予約)
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2021年8月現(xiàn)在の情報となります。






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